江戸ムラサキによる夜の営み
近頃は豆腐が好きで食べている。というか必要に駆られて摂取しているうちに大好きになってしまった。
ドウモこんばんは、アウグストゥスな俺です嘘です。スピードとパワーのバランスが最も良い体重に戻す為、アレグロな俺は現在5?の減量をしてるわけではありますが、何をしているかというとただ夜ご飯に木綿豆腐を一丁食べているだけではあります俺です。
豆腐はカロリーとか栄養の面から考えても良い食べ物ではあるのかもしれないけれど、アレグロな俺は"お腹がイッパイになる"という観点から豆腐を寵愛している。いつも遅い時間に晩ご飯を食べる上、どうにも食後に魚肉ソーセージやらドリトスやらサッポロポテトバーベキュー味やら江戸ムラサキやらをおまけに食してしまう。江戸ムラサキは嘘だ。
豆腐は一丁食べると他に追加で食べる気が沸かないくらい満腹感がある。だから好きだ。そしていまや味も好きだ。朝昼は好きなものを食べ、夜は豆腐。一生この食生活が続いても特に不満は感じないという気もする。
自発的な節制は楽しい。アレグロな俺は節約やケチることが好きではなく、なぜかというとそれは気持ちをやせ細らせてしまうからであって、だから節約するよりはエネルギーを増やすべきだと思っている。自分の欲に関してはできるだけ成就させてさせてやりたいと思う。だってアレグロな俺にとって欲というものはそうそう出会えない、レアメタルのような存在だから。
やはぎ『オレはお前のやりたいことはできるだけやらせてやりてぇと思っているよ』
という感じではあるので、物欲が発露してしまったのならそれを買ってやりたいし、手に入れたいという乾きが生じたのなら潤わせてやりたいと思う。我慢は好きじゃない。我慢して物事を成すより、さらにエネルギーを投資して機関を動かし、発電の対価として得たエネルギーで欲しいものを手に入れたいと思っている。
我慢とは違う、理想がある節制は好きだ。節制という不自然な圧力のかかった身体は特殊な鋭さを発揮する。やはりそれは我慢とは違う。
♪バッハ:ゴールドベルク変奏曲/グレン・グールド(P) '55
ヒロシの必要性
なんてことはないのだけど、特に文章を書く気はなかったけれど、まぁたまには書いてみる。mixiの自分のアカウントへつけられた足跡というのは人間関係や人間の性格をストレートに表しすぎている。感受性の強い人にとっては、思いが飛躍しやすい人にとっては、むき出しすぎて危ない感じもする。
まぁ僕はなかなかに喜んでいるけれど。
さて。走っている。30分ちょっとくらい。アレグロなオレはストレスが溜まると身体を伝う葉脈に通行止めが生じる。風邪かなと思ったり、風邪をひいたり、昼寝したり、早寝したり、1ヶ月くらい色々試して気付く。
あ、ストレスが溜まっているんだな、と。
昨日から走るのを再開した。日常的にはまったく使用しないウォークマンというアイテムをこの時は装着する。伊集院光の"深夜の馬鹿力"を流し、長くなりすぎたオープニングトークはちょうど35分くらい。アレグロな俺のジョギング時間とおんなじだ。
あ、挨拶を忘れていたのでコンバンワ、アレグロな俺です。近頃僕は通信機能のついたゲームで、なかなか会うことのできない古い友達と、互いに家にいながらドラゴンを倒しに行くということをやってみたいなと思っています。
『タカシ! ドラゴンの足を攻撃し動きを鈍らせろ!』
『ツヨシは翼を魔法で束縛しろ!』
『俺は後ろにまわり、頚動脈を狙う!』
『ヒロシ! お前は足手まといだから攻撃を受けないように距離をとって見てろ! でもやることなくて寂しいなら、ドアに忍び寄る母ちゃんの進入を防げ!』みたいなね。
ヘッドフォン・セット越しにみんなで『了解!』みたいなね。
ヒロシ! ドア開けなさい! 明日テストでしょ、うわっかあちゃん、ブチ。ツー・・・・・・。
みたいなね。まぁ男の子だからね。
しかしながら僕の家にはニンテンドウDSとラジオとパンツのゴム紐しかないのでそれが叶いません。
♪7songs/波多野秀治(戦国時代)
※パンツのゴム紐=メタ的なヒロシ
※ヒロシ=メタ的な何か
と深読みする必要はまったく無いです。
自分の仕組みのこと
思えば休日に罪悪感を感じなくなってきた。ずっと長い間休みの日にふと行動に自覚的になると、こんなことしてていいのだろうか、という罪の意識に苛まれてきたが近頃はそんなこともなくなった。きっとたぶんそれは良い具合に生きられている証拠だ。
こんにちは。アレグロなオレです。何が伝えたいかというと2連休なのである。
まぁ熱が出ている為、昨日の休日初日は寝て過ごし、今日もぼやぼやしているわけではあるが、気持ちは安定している。
改めましてコンニチハ。動物好きな俺です。多摩川のタマちゃんとこっそりふたりで会いたいです。僕とタマちゃんはお互い丁寧なコミュニケーションを形成できると思うんだ。
さておき。アレグロな俺は、ある程度、愚痴や不平不満を言わずに生命活動をおくれるようになったとは思うんだけれど、どうしても熱が出る。
老廃物の処理速度が間に合わなくなってくると、体と神経が連動しなくなり、本人はできているつもりで、周囲からは気持ち悪い動きにしか見えないロボットダンスのようになってしまう。みなさんも一度は目にしたことがあると思う。他人にしろ、独り暮らしの鏡の中にしろ。
そのようなしかるべき経緯があり、熱が出る。そして休息の必要性に気がつく。ここ数年はそれを繰り返している。繰り返しているくせに熱が出るまでオーバーホールの必要な機構の磨耗に気がつかない。
まぁ熱が出ると安心するわけだけど。
これで修復される、という風に。
ねぇ、多摩川のタマちゃん。今キミはどこにいますか?
♪SCHUBERT:PIANO SONATA NO.14/RADU LUPU(P)
深夜ラジオの前に
コンバンワ、アレグロなオレです。好きなギャグは"あずMAXっ!"です。近況と言えば、最近お仕事でパリに行ってきました。パリジャンに嘘の道を教えられ、パリジェンヌに本当の道を教えてもらって帰ってくることができました。ええと。概念的な話ではなく、実話デス。
さておき。最近思ったことを整理してみる。深夜ラジオは僕の生活カテゴリのほとんどの優先順位をごぼう抜きにし、先頭に立ってしまうので、今の時間しかチャンスがないんだ。
"良いもの"には緊張感がある。僕の生きてきたなかではこのことに例外はない。
"良いもの"は受け手に必ずほどよい緊張感を与える。その正体は何か、そんなことを深夜ラジオが始まるまでに考察してみる。
緊張感がもたらす最たる美徳とは何か。アレグロなオレはそれは距離だと思う。アイドルタレントが好きになる。盲目的に好きになる。スノッブぶったデザイナーが好きになる。彼を時代を変える革命家のように思い込む。文豪が好きになる。デカダンスな自分を自嘲することで酔う。生きていれば色々好きになる。だけど100個好きになったもののなかにどれだけ本当に良いものがあるだろう。
いったいなにが良いものなんだろう。ここでは、人それぞれ、という言葉は一切無視する。はっきり言って、人それぞれ、というものは自給自足で独立したものだけが使用してよい特権のような言葉だから。
アレグロなオレは思う。26歳までは"ごっこ"だった。お店やさんごっこやお医者さんごっこというような"ごっこ"だ。ごっこにいかにリアリティをもたせ、ごっこ内の法律を破ろうとする外部圧力に対抗、排除する為の弁舌や知識、そんなものをかき集めてきた。つまり"ごっこ"にいかに強固な枠組みを持たせるか、ということが自分を肯定することであり、自己愛を研鑽することでもあった。
技術が高いか低いか、エネルギーが多いか少ないかの差こそあれ、つまりのところそれは"投影"だった。
緊張感がもたらす最たる美徳とは何か。アレグロなオレはそれは"距離"だと思う。
良いものには体を全て預けられない。心を全て預けられない。全てを肯定できない。
それは実際的にできないし、心地よい感激からとはいえ、自我の全てを放棄してしまい、忘我だけに身を浸してしまえば、良いものは真には感受できないというジレンマもおもしろいことに、ある。
移入。
アレグロなオレは"移入"ということについて考える。なぜ良いものは適度な緊張感を相手にもたらすのだろうか。
つづく――。
♪Beethoven:Piano Sonata No.32/Yvonne Lefebure
知らない誰かの計画
ここ一年はシステマチックに運動してこれたように思うけれど、近頃は少し気持ちが揺れるようになった。切ないとか。
というか切ないという隆起が時々起こって気持ちを揺らすようになった。
アレグロな俺は意外とそれを歓迎している。
あ、ドウモ、こんばんは。現状維持なオレです。GIRIGIRIで現状維持なオレです。この頃はなんだか春みたいな感じがして、つい日記を書いています。
なんというか、やっぱり四季は好きだ。飽きたなって頃に次の季節の予感がする。ウン? ちょっと違うかな。次の季節の予感がしたときに今の終わりかけの季節に飽きたなって実感する。
だから次の季節が来なければ今の季節に飽きたなどと思わないのかもしれない。
さておき。アレグロなオレはこの頃時々ウウゥッって泣きそうになることがある。それは18歳の春に感じた気持ちと似ているようでもあり、似ているだけのようでもある。
アレグロな俺はそのことをとても嬉しいことと感じている。隣に誰かの気配を感じることを、綿密に仕組まれたフェノメノン的に歓迎している。
♪L'ENLEVEMENT AU SERAIL/FRICSAY STREICH STADER
昨日の夜
こんばんは、アレグロな俺です。ワタシはワタシ、つまりのところ、ハンバーグとオムライスが好きなフツウの女子高生です。
当然といえば当然だけれど、思い出す、という事象は忘れていなければ起こらない。あの時の鋭く揺れやすかった感受性や、あの時の濃密だった熱源や、あの時愛する対象を見ていた視線だとかは、この時には忘れてしまっている。
アレグロな俺はふと思い出すのが好きだ。
正確には"思い出す"ことは自発的ではない。触媒が頬をかすめ、電極が合致することで、それは起こる。思い出されることによって初めて思い出すことができる。エネルギーをたたえ合った極が触れ合うことで現象は始まる。
その電熱はストーブにように下方から螺旋を描き熱を生み出す種類のものもあれば、マグネシウムの発火のように激しく刹那的だったりする。
昨日の夜、少し思い出すことがあった。その時間は真夏の台所の日陰に落ちていた檸檬を僕に思い出させた。
♪MAHLER:SYM9/WALTER VPO
アレグロな俺はずっと考えていたんだ
コンバンハ、アレグロな俺です。随分と日記を書いていなかったけれど、何をしていたかというと考え事をしていました。何を考えていたかって言うと、自分はどうして背の小さな女のコに惹かれるんだろうという深遠な自問について考えていたわけです。
まず、始まりについて遡ってみる。30歳の時に好きな女性――うん、背が低い。25歳の時に好きな女性――背が低い。20歳の時――うん。18歳の時――低いコだった。17歳…ハッ! 低くない。16歳…低くない。じゃあ6歳は? ……誰でもだいたい背が低い!
という事実を元に考えてみる。
やはり18歳から始まっている。そのコとお付き合いしているときに横恋慕した女のコは? …低い。
アレグロな俺は高校生活までを兵庫県でおくり、大学入学を期に京都で暮らし始めた。どうやらその時から背の低い女性が好きがスタートしているようだ。いや待て、アレグロな俺が小学校6年生だった頃、新しく入学してくる一年生の女のコの中に99センチという1メートルを切る身長の女のコがいるという噂にときめいた事実がある。だけどまぁそれはさておこうと思う。そのときめきは今調査している感覚とはきっと少し違う。
今、アレグロな俺は自分が一貫して好きなものに興味がある。
3歳から31歳まで一貫して好きなものに興味がある。例えば小さくて重量のあるものがずっと好きだった。あれ、これこんなに小さいのに予想外に重いってものが好きだったし今も好きだ。
ひとまず考えやすくする為に、背の低い女性が好きなのは18歳からということにする。18歳から31歳まで一貫してその資質を持つ存在が好きな理由。
その事実に、ものごころ付いたときからの小さくて重いものが好きな理由をはめ込んでみる。あれ? これ小さいのになんで? という時に起こる感情の隆起だ。
さて。これから書くのはアレグロな俺が小さな女性を好きな理由という論文の序文だ。
アレグロな俺は、背が小さいけど気は強い女性が好きだ。
♪BACH:CELLO SUITES/JORG BAUMANN
S.F
こんばんは、アレグロな俺です。近頃は合間をつくってヴァイオリンの練習をしており、『スケーターズ・ワルツ』と『思い出のアルバム』が弾けるようになりました。
さておき。随分と考えていなかったことを、またふと考えてしまうようになった。パラレルワールドについて。また時々そんなことを考えてしまうようになった。あ、改めましてこんばんは、ご無沙汰しています、S.F(最近・不規則)なリズムで回転している俺です。
近頃のアレグロな俺は理想と現実の差異を極力減らすように生活できていて、だからここ1年間くらいもしかしたらの世界について思いを巡らすことがなかったし、それは必要が無かったから浮かび上がってこなかったのだと思う。今は反復運動の維持に必要なエネルギーが不足し、バランスを崩している。
畳をめくったら遠い宇宙の果てにある惑星の都市のマンホールに繋がっている。という想像は誰もが持ちうる。その想像が今の自分の毎日において必要なことなら、パラレルワールドの枠組は現実と同じ質量で強固に形成される。浅瀬でも深海でもどこかの場所で切迫していない想像は幻想以下の3流ドラマにしかなりえない。
今の現実、今の自分に満足すれば想像力は必要なくなってくるという部分は多かれ少なかれあるのかもしれない。だからといって飢えや空洞が巨大な人こそが、いつの日も大きな発見や美しい芸術に到達できるとは僕は思わない。穴が大きい人は必ず見合った大きさのスコップを持って生まれてきている。穴埋め作業にだけ大きな意味を見出し、声高に叫ぶのでは哀しい。
底の見えない深い谷や戦意を失わせる高い山や屈服をやさしく促す広大な海が道を遮っていても、向こう側に見つづけている景色にこそに意味があるだと思う。
自身が幸福でも不幸でも関係ない。全ての人を幸福にしようとする気概の強さと営みが僕は表現なのだと思う。
パラレルワールドをメタ的に描いた映画や芝居の主人公ともうひとりの主人公は共同戦線後に握手をして別れる。
少し、不幸になる未来を互いに匂わせながら。
♪COPLAND:PF SONATA/NOEL LEE(PF)
基本的に
はろうこんにちは。アレグロな俺です。最近は唇が乾いています。なので唇は常に何かに覆われていたいということをよく考えています。やさしい絹的なものがいいなぁ。
改めましてこんばんは。シーサイドジェットシティな俺です嘘です。
18歳半ばから29歳後半までを綱渡り、自分がまたようやく18歳までの性格に再会した、という風に今アレグロな俺は思っている。
色々な変化があるが、ひとつにはそうなってからは瞬間的に何かを好きだと思うことは少なくなった、ということがある。同じ意味ではあるけれど、瞬間的に何かを好きになっても短い時間でその事実を覆したくなったりしなくなった。同義ではあるけれど、今好きになるものは過去も未来も現在も僕は好きだと思っていると思う。
仮説ではあるけれど、なんというか幻想に自己投影をしなくなったのだと思う。基本的に、僕は愛されているし愛している、という関係性が生産するエネルギーが外に零れたことで世界に及ぼされる事象が好きだ。
向かいの窓からそんな存在の片割れを眺めているのが好きだ。
口笛を吹いてそんな存在の気を引くことが好きだ。
雀の声に耳を澄ますことがね。好きです。
♪BRAHMS:VIOLIN CONCERT/NEVEU(VN) ISSERSTEDT
ナンダモン
こんにちは、アレグロなオレです。今日は休みだったのでヴァイオリンの稽古をシテイマシタ。教則本一冊でほとんど独学でやっているので、色々な発見もあるけれど、取り返しのつかない悪い癖がつきそうでシンパイです。だれか個人レッスンしてください…。
さて。なんというか風邪をひいている。鼻呼吸をしているからもう風邪なんかひかないぜ、って調子をこいていたのだけれど、まんまと熱を出しています。鼻呼吸で全ての悪い可能性は回避できると信じていたあの頃の僕が眩しいです。
まぁ家で寝転んでいることがずっとなかったので、なかなか新鮮な気持ちで半日休んでいたのだけれど、夕方過ぎからヴァイオリンを触ってみたり、タイヤキを食べたりしているうちに、もうすっかり寝ている気がなくなってしまったので、こうやって日記を書いている。書きながら文章に対する姿勢が昔とは変わってきたなと思う。結局のところ、文章を書くことにすがっていたあの頃の自分を思う。書かれる白紙のノートもそんなアレグロなオレに実は結構もっと針圧を下げろよとか思っていたのかなと思う。
今はといえば文章のことを信じているのでなんとなく表面上は気楽に付き合っている。あの頃は文章の力で何かが変わるというより、文章を書いているという行為で自分を保っていたように思う。今は文章を書くという行為にはあまり意味付けをしなくなった。
すこし話が逸れるけれど、変態さん同士の集いでお互いがお互いに『もっと冷静になったほうがいいよ』と言い合っている姿はすごく魅力的だ。
数日前、アンナ・パヴァロワかアンナ・パヴァロアかどっちが日本の通称なんだろうと思ってネット検索をしていたら、いわゆる格言サイトのようなところにたどり着いてしまった。
そこには『成功とは、人が自分の理想に到達したときの気持ちのことである(アンナ・パヴァロワ)』とあった。
アレグロなオレは格言が苦手だったけれど、今はけっこう好きになった。もう少し具体的に言えば、格言を一度バラバラにして再構築することをけっこう楽しく思っている。
何が幸せ? という問いが世界にはよくある。幸せって何? という問いだ。人の望み。僕は何を望んでいるのだろう。何を叶える為に生命活動に火を灯しているのだろう。
僕は自分じゃない誰かや何かを好きだと思う気持ちを感じたい。それは奇跡的に幸せなことだとアレグロな俺は思う。何かを求める気持ちには必ず理由がある。でも何かを好きだと思う気持ちには、そのものに自分を重ねていなければきっと理由はない。
『だって好きなんだもん。あのおじさんお菓子くれるし…』
ではなくて、
『だって好きなんだもん…』
がアレグロな好きな現象だ。だから理想でもある。成功した時の気持ちを感じたいから好きなものたちが消えてしまわないように日々命をかけて過ごしている。
巨大な否定要素にどんな不意打ちをされても打ち勝てるように。
まぁそんなこと言っても風邪をひいているんだけどね…。
♪BEETHOVEN:SYM5(TRANSCRIBED FOR PIANO BY LISZT)/GLENN GOULD(PF)